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お礼申し上げます

なんやかんやと忙しくなり、
納得いくものが書けなくなってきたので、
とりあえずブログ界から撤退することにしました。

長い間おつきあいくださった皆さま
ときどきお立ち寄りくださった皆さま
ことに、
コメントをくださった皆さまには、
心より御礼申し上げます。

こうしていくばくかの年数、
続けてこられましたのも、
皆さまのアクセスと暖かい励ましのおかげさまと、
心より感謝申し上げますとともに、
みなさまの今後ますますのご多幸を、
お祈りしております。

時節柄、どうぞご自愛ください♪
Photo_4

ねこきち

がんばれ任天堂

ネットゲーム大手がすごい勢いで伸びているという話を聞いて、
一抹の懸念を覚える。

納期に厳しく、部品メーカーにとってはうるさい会社だが、
確固たる経営理念を持ってゲーム業界をけん引してきた任天堂は、
苦境に立っているだろう。

花札屋から出発した任天堂は、
「子供から大人まで一緒に遊べる『おもちゃ』」を念頭においてゲーム開発をしており、
だから、スーパーマリオとか、カービィとか、
どこかホンワカしたキャラクターしかなく、
暴力的なゲームは、
売れるとわかっていても敢えて扱ってこなかったそうだ。

また、
「子供がお小遣いをためれば買える」を想定しているので、
ネットゲームのように、
課金制で、のめりこむとどんどんお金がかさむようなゲームには、
手を出さなかったのだ。

これらの高尚な経営理念を保ったまま、
任天堂にも踏ん張ってほしいものだ。

立待月

土曜に父からメールが入っていて、
「今夜、皆既月食」とのことだった。

明けて今朝、月齢16.6の立待月が、
夜が明けてまもない空に不思議な感じで、
煌々とかかっていた。

英語と日本語を比べると、
英語がいかにあいまいな言語であるかがわかる。
ひとつの単語にいっぱいの意味があって、
それを、文脈の中で、
「こっちの意味なんだな」と読み取るしかない。

日本語にも同じ「音(オン)」の言葉は、
まあまああるけど、
一つの単語の細分化といったら気が遠くなるほどある。

http://www.benricho.org/moon/#

新月・下弦の月・上弦の月、
三日月・弓張月・十三夜月・満月・十六夜(いざよい)
立待月(たちまちづき)
居待月(いまちづき)
寝待月(ねまちづき)、臥待月(ふしまちづき)
更待月(ふけまちづき)……

師走

車の中でラジオを聞いていたら、
どっかの少年が、

「最近は、忘れ物をするし、
遅刻はするし、
なんたらかんたら……」

それはたぶんセロトニンが不足しているからだよ。

私もこの時期、ふと気づいたら、
手とか足とかに、
身に覚えのない擦り傷をしている。

たぶん、自分の爪でひっかいたり、
しょうもないことで作った傷なのだ。

考えてみれば人の体は、
お茶碗から出発して、間違いなく口にご飯を持っていったり、
日々すごい芸当をやってのけている。
それが、セロトニンが不足すると、ちょっと手元が狂ったりするのだろう。

師走は大掃除やら年賀状書きやらで、
そもそもからして多忙である。

そこへ忘年会とか
地域の餅つき大会とかイベントが入る。

昨日は朝暗いうちから夜遅くまで外出していて、
仕方がないので夜に夫と洗濯物を干しながら、

「みんな、忙しい忙しいっていいながら、
なんで予定をぎゅうぎゅうに入れるんだろうねー」

一番日の短いこの時期は、またたく間に過ぎる。

今年の流行のひとつ

ニュースを見ていたら、
年末恒例の「今年の流行」を特集していて、
なでしこジャパンやスマホのほかに、
大震災を受けて婚活が流行った、
というのをやっていた。

婚活に参加した(そんなに若くない)女の子が、
首から下だけ映っていて、

「やはり、何かあった時に、
支えてくれる人が欲しいと思いました」

というので、椅子から落ちそうになった。

家族を持つことに醍醐味があるとしたら、
それは、「支えてくれる人がいる」ことというより、
「支えてあげないと、と思う人がいる」ことで、
ちょっとだけでも強くなれることなんじゃないかな。

首から下だけ映っていた女子よ、
「支えてくれそうな人」ではなくて、
「支えてあげたい」と思う人を、
探すといいんじゃないかな。

電車ひとり旅

高校三年の秋に、電車ひとり旅をした。

ひとり旅といっても、
お気に入りの音楽を聴きながら、
姫路からガタンゴトン播但線で北上し、
餘部鉄橋を渡って、
今度は北近畿タンゴ鉄道かなんかで南下するという、
日帰りのお手軽なものだった。

途中、降りた駅をぶらぶら歩いていたら、
円山川があって、
日ごろ、瀬戸内海しか馴染みがないので、
日本海にそそぐというだけで感激し、
土手に座ってみていたら、
背後で小学校低学年くらいの男子の一群が、
集まってひそひそしたあと、
声を合わせて一斉に、

「は・や・ま・る・な・ー」

といってくれた。

もういい大人になっているであろう彼らにいま、
もう一度会って、
ひとりひとりと握手したい。

何かを見つけようと意気込んで旅に出ても、
なんにも見つからないことの方が多い。
今ならわかる、
大切なことは、ありふれた日常をいかに充実させるかにあるからだ。
そしてむしろ、何も期待せずにでかけた先で、
人生の大切なことにハッと気付いたりするものだ。

どう変わるのか

大阪府知事選に破れた倉田元池田市長が、

「私が敗れた相手は、前知事が残した幻影なのだと思う。
府民には閉塞感があって、
何か変えたい、
どう変えたいかはよくわからないんだけど、
とにかく変えたいという気持ちが強かったのだと思う」

まったくその通りだろう。
そしてそれは、大阪に限ったことではないんだろうと思う。

日本は小さい。
豆粒みたいに小さい。

それなのに、少子高齢化を真っ先に経験し、
原発との付き合い方まで、
世界に先駆けて抱え込んでしまった。

これまで中国とかアメリカとか、
歴史的には大国に追随してくればよかったけど、
もう、そうはいかなくなったのだ。

どう変わるのか。
どう変えるのか。

「変えたい」と思ったのだから、
次は、「どう」を問う番。
自分もその中のひとり。

野生の部分

母と「気配」の話になった。

危険なこと、モノ、ひと、
手におえないようなこと、モノ、ひとには近づかない、
という大原則がある。

社会生活を営む上では、
接触は避けられないにしても、
深入りはしない、
「あ、こんなことしたら、まずいな」と感じたら、
すぐ踵(きびす)を返す、
生きていくうえでそういう感覚は大切だと思うけど、
まず「何が危険か察知する能力」は、
人の「野生」の部分によって立つ。
また、何が危険かを察知する能力は、
自分のサイズを正しく知ることと不可分でもある。
(引き受けられるリスクの度合いは、
その人のサイズによって当然違う)

そういった部分は、
野山を駆け巡ることで身に着けることができるが、
野山を駆け巡ることでしか、
身に着けられないような気もする。

だから、満員電車でぎゅうぎゅうな時は、
敢えて「気配」に対するアンテナを格納し、
感覚をにぶらせなければ無理だなと、
みんなそうしているのだなといつも思う。

外でほとんど遊ばない子供、
道具を工夫しない人が増えると、
「気配」を察知する能力がどんどん衰えるような気がする。

ルミナリエ2011

通りをわいわい歩いていた人たちが、
東遊園地までくると、

「写真撮影などで、立ち止まらないでくださーい」

という警備員の叫び声が響く中、
「わー」といったまま言葉をうしなって、
ただひたすら写真を撮り始める。

背後から、

「やばくない?」

という、若い男の子の声が聞こえた。
誰かに同意を求めるというより、つぶやきに近かった。

ちらっと振り返ると、
光の輪に照らされて目をきらきらさせた男子が、

「これって……すごい。やばくない?」

その様子を、まだ初々しい感じの彼女が、
シアワセそうに見ていた。

警備ばかりが頑丈になる一方で、
電飾自体は年々しょぼくなっているけど、
初めて見る人に感動を与えるなら、
それはそれでうれしいことだ。

阪神淡路大震災からもうすぐ17年、
今回はまたよりいっそう祈りの強いルミナリエになった。
20111202_182848_2

ランウエイエンドの思い出

二葉亭四迷の「浮雲」の中に、
「わたしは驚きたいのです」という一節があると知った時、
(本文は読んだことがないけど)

「や!私とおなじじゃん!」

と思った覚えがある。

もっと近い感覚は、

「わたしは圧倒されたいのです」

2歳のころ、王子動物園で象を見た時、
雷に打たれたように固まって、
その巨体を見上げていたそうだ。

以来、「圧倒してくれるもの」を求めて旅を続けているのだが、
これがなかなかなくて、
学生になってやっと出会ったのが、
ランウエイエンドだった。

大阪国際空港の、
文字通りランウエイ(滑走路)のエンド(端っこ)に、
旅客機を見上げられる草地があって、
夜、ライトを点滅させながら、
おなかに響く轟音と共に降りてくるボーイングを、
排ガスが降り注ぐ近さで、あんぐり口を開けて見上げた時の感動は、
ちょっと忘れられない。

今はもう、フェンスが張り巡らされてそこに入れなくなっているのは、
つくづく惜しいことだ。

«たぶん、中毒性がある